長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その64)失敗に学ぶ

昨年の暮れ12月9日の新潟日報の1面に「戦禍の真相問い繰り返す」というタイトルで上皇様と上皇后様が平成在位時代に象徴の務めを果たすために、満州事変など戦禍の真相について熱心に学ばれたとの記事に触れた。平成13年2月~平成16年6月の間計6回に亘り、作家半藤一利氏と保坂正康氏を皇居に招いて懇談されたとのこと。胸が熱くなるのを覚えながら読んだ。物事をありのままに捉え、真実・真相を限りなく探究する態度に共感しながらであった。

 半藤氏の著書「昭和と日本人 失敗の本質」、昨夏に別の興味で購入したまま積読してあったのを思い出し、氏がどのようなトーンで懇談されたのかの一端を知るべく改めて読んだ。関心を抱いた幾つかの事柄の内、最も強く感じたのは、ノモンハン事件に象徴される「無謀な戦争を不問にした日本」というくだりである。氏はその中で惨敗した事実とその背景にある真実から目を背け、何も学ばずさらなる破滅へと向かった件を鋭く批判している。「組織というものは今日もまた同様で、失敗の研究を徹底的にし、その責任を明らかにしようとしないものである。文字面としての各論は一応は残すが、頂点まで責任の及びかねないことは『そこまで』でとどめるのを常とする」と批判した。

 なぜそうなのかを詳しく掘り下げてみたい欲求にかられ、仲間に参考意見を募ったところ「失敗学」というのがあるがどうか、と示唆があった。失敗の原因やそこから学ぶ事の社会科学や行動科学的研究をする分野であることまでは知ったが委細内容については今、勉強中である。興味ある沢山の学びが期待できそうなのでワクワクしている気分でいる。

 上述の半藤氏の批判を長岡市政、とりわけ官製談合事件に当てはめて改めて思ったのは、本当にその通りだ!である。官製談合事件の発生原因は市長を含む役所幹部や一部の議員のインテグリティーの欠如であり、その失敗から学ぼうとしないのは、役所と議会という組織の保身本能であり、それを赦してしまっている市民の衆愚である。官製談合事件はまだまだ未解決のままである。失敗学を勉強して追及をして行きたい。