長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その48)長岡市の民主主義に思う

原発問題と議会のあり方について追及中であるが、長岡の民主主義の現状について思うところを記録しておきたい。

 

民主主義とは民の主(ちから)を実現するために民が力(ちから)を持つことが原点である。古代ギリシャで芽生えたとされる民主主義はまさに民の力であった。

 長岡の今は民の力が極端に衰え、劣化したため利権主義の政治屋を生み、衆愚政治ポピュリズムが蔓延り民の主が消え失せた状態である。日本全体がその傾向にあるが、長岡はその先端を行っている。民の代弁者であるはずの議員が権力主義の市長を忖度し、もたれ合って権力のおこぼれを貪る様は、堕落などのレベルではなく腐敗である。官製談合事件の真犯人である人物が市長に再選されるなど、その腐敗ぶりは惨憺たるものがある。

 もうこの辺で長岡の民が覚醒し、真の民主主義の奪回に向けた行動を取り戻さないと大変なことになる。今のままでは子や孫に長岡を引き継ぐことは到底できない。

 

民の力とは

①政治は自身が行うものであるという自覚と関心を持ち、

②真摯で誠実な決心で正義すなわち真なる善を求め、

③信託を与えるに足り得る代理人(市長と議員)を見抜き選ぶ、能力と態度である。

 

この事に長岡市民は気づき始めている。これまで選んできた市長や議員では本当の民意を反映した政治ができないことを。歪められた長岡市政を糾し正すきっかけとなる日もそう遠くないと実感する。