長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その34)民主主義長岡市政への思い

【L-28】原発問題、【GL-1】議会への質問の答えを待っている間、民主主義長岡市政への思いを幾つか綴っておきたい。先ページ(その32)に掲載したチャートを眺めつつつくづく思うこと。

古代ギリシャで始まった民主主義とは「主義」という言葉が醸し出す所謂「イズム」ではなく民の主(ちから=力)であり政治の形態そのものを示すものであった。民が当番制で政治したのである。社会の規模増大により当番制では政いきれなくなりやむを得ず公務員と議員というプロが自然発生した。政治はこの公務員と民の代表である議員による代議制により執り行われるようになったのである。この「やむを得ず」というところが重要であり、民の主(ちから=力)による当番制ですべて政治出来るのが究極の理想である。つまりプロは存在しないのが究極の理想である。その意味で究極の責任は民にある。

❷上のことを為政者(公務員と議員)と民の双方が正しく認識することが民主主義の出発点である。民が対価を拠出して政治をしてるのであり為政者は民の拠出金で賄いを立てているのであることを銘記するべきである。反対に民は自身の信託を為政者にコミットしている責任があることを忘れてはならない。コミットしっ放しでは無責任であることを知るべきである。

❸今長岡市は上記❶と❷を正しく認識し行動していると言えるか?はなはだ疑問が残る。民は政治には無関心乃至時代遅れの価値観で形式だけの選挙をしてしまい、為政者はそういう民の無知蒙昧さを梃子にして利権を得てその上で胡坐をかき利権を貪っている。

このまま続けばそう遠くない将来、長岡は腐りはて、悪夢を見ることになろう。