長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その24)長岡が真の民主主義に向かうために

これまで23ページにわたり、官製談合事件や原発問題など具体的な懸案について、「市長への手紙」のやり取りの実況生放送を続けてきたが、つくづく思うことを忘れないうちに綴っておきたい。

 

民主主義とは、と問うときその原点にあるのは「民の力(ちから)=民の主 (ちから)」であるとどこかのページで述べたが改めてそれを強く思う。さらに展開して、その民の力(主)の支配原理の第一は「真実に対する絶対的価値観」であると思う。真実を重んじ、真実に対して真摯でなければならない。第二は「寛容」「赦免」である。動くものはぶつかる、飛ぶものは落ちる、浮かぶものは沈む、そして人は間違いを犯す。これらは真実の背後にある「真理」である。人為的な努力ではこの真理は絶対に排除できない。この真理にあがらい、発生した不都合な真実を「なかったことにする」所作は民主主義の第一原理に反する。逆に不都合な真実を認め反省する者を赦さないのは第二原理に反する。

 

長岡市官製談合事件の真犯人である磯田市長がその真実を認めず隠す行為は従って民主主義の第一原理に反する。また原発問題で間違った公約をしてしまったことを認めず、ねじまげて正当化しようとする行為も民主主義の第一原理に反する。

官製談合事件で磯田市長が言うべきは「間違いを犯してしまいました。情報漏洩は良くないことであるとは思っていましたが正直それほど悪いことでもないと思っていました。心を入れ替え改めます。どうぞお許しください」であるし、原発問題での公約問題でいうべきは「確かにご指摘通り間違った公約をし、市民を困惑させてしまいました。辞任したうえ新たな公約のもと再立候補します」である。そして市長選をやり直すべきである。そして長岡の民が民主主義の第二の原理に則って「赦す」かどうかを問うべきである。問わないのは第二の原理に反する。今長岡の民の多くは第二の原理に則り「赦した」のではなく第一の原理に反しているだけである。