長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その27)「お上意識」についての補足

前頁(その26)で長岡市役所に蔓延する「お上意識」について指摘したがふと思い出したことがあるので補足しておく。「役所は絶対に間違わない」→「間違ったとしてもその責は民にある」。こんな前近代的な思想風土が現在の長岡市に厳然として生きている。「お上」を超えて「お神」となっている。

ローマカトリックの用語であるが、最高の統治権を持つ教皇が信仰・道徳上の正式な決定をする場合、神の特別な保護下にあるので絶対に誤ることはあり得ないとする考え方があり、これを「教皇不謬性」という。

この用語を用いると長岡市役所は市政にあたり誤りはしない「役所不謬性」という信託を得たとしている。なんともかび臭い。

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その26)染みついた「お上体質」を改めるには

前々頁(その24)で民主主義の原点である「民の主(力)」とその支配原理について触れたが、追記し補足しておきたいことがある。

◆先ず原点である「民の主(力)」についての補足

 民主主義というとき「主義」であるから「・・・イズム」という抽象的な概念という響きがあるが元々は具体的な事象としての「民の力」であり、民の知識、情報、判断力、哲学など必要なすべての面で政治するに値するレベルにあることが前提である。今、長岡の民はこの点どうであろうか。古き良き時代の価値観をそのまま引きずり、政治のことは「お役人様に任せておけば良い」として、政治に必要な「力」をつけるための欲求と努力が欠如しているように思う。「お役人様」つまり為政者はこういう民の無知蒙昧さを良いことにして、それを梃にして己の権力を貪っている。私はこれを「衆愚政治」(広い意味でのポピュリズム)と先のページで定義した。地元出身、地元代表のお役人様を妄信し、選挙してしまっている民の方が多い(先の市長選を見れば明らか)。真に民主主義を目指すなら民はつまり市民は己の「力」をつけ「主」たる資格を希求し努力しなければならない。また為政者は民が「力」をつけるための啓蒙をしなければならない。啓蒙することが治める事に直結することを知らねばならない。いまは啓蒙とは真逆の「梃」にしている。

◆次に原点を支配する原理にかかわる深刻な「お上体質」について

 支配原理の第一は真実に対する絶対的価値観、第二はその絶対的価値観に基づいて発出する「真理」を受容した謝罪と再出発意欲には寛容でなければならないことであると述べた。深刻なのは、真実の背後にある真理の一つ「人は間違いを起こす」を認めようとしない傲慢なお上体質が役所の末端まで染みついていることである。

 自身が経験したことであるが住居を一時大阪に移したとき、長岡市が間違って住民税の請求書をよこし二重払いになったことがあった。この時長岡市から来た通知は、「私(小林)が過誤納したので還付請求せよ」であった。間違ったのは役所であると抗議したが、認めようとせず、抑え込まれた。類似のことは他にもいくつか経験している。「お上は間違いを起こさない」という神話が役所内末端組織細胞まで染みついている。役所も人が運営しているから時に間違いを起こすことは真理であるのにこれを認めようしない。民主主義の原点を支配する原理から外れたままである。官製談合事件の真犯人である磯田市長が真実を白状しないのはもしかしたらこの「お上体質」からかもしれず、ご本人は白状しないのが当たり前になっているのではないか。この真理に逆らう悪しき体質を改善するには相当のエネルギーが必要であるように思う。

 

 

 

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その25)「議長への手紙」制度の提案と回答

このブログは「市長への手紙」という制度に則り、交わした問答を引用しつつ長岡に真の民主主義をもたらしたいとの願いを込めて発信しているが、市長と対等対立する「議長」(「議会」)との対話の道がないことに気づかされ「議長・議会への手紙」制度の創設をネット投稿で提案した。それに対する磯田市長からの文書による回答が来たので掲載しておく。

【R-18】

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この回答をご覧になって読者諸君はどう感じられたでしょうか。「事務局」というのは・・・・と思うが、そういう道があることが分かったので今後活用することにしたい。

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その24)長岡が真の民主主義に向かうために

これまで23ページにわたり、官製談合事件や原発問題など具体的な懸案について、「市長への手紙」のやり取りの実況生放送を続けてきたが、つくづく思うことを忘れないうちに綴っておきたい。

 

民主主義とは、と問うときその原点にあるのは「民の力(ちから)=民の主 (ちから)」であるとどこかのページで述べたが改めてそれを強く思う。さらに展開して、その民の力(主)の支配原理の第一は「真実に対する絶対的価値観」であると思う。真実を重んじ、真実に対して真摯でなければならない。第二は「寛容」「赦免」である。動くものはぶつかる、飛ぶものは落ちる、浮かぶものは沈む、そして人は間違いを犯す。これらは真実の背後にある「真理」である。人為的な努力ではこの真理は絶対に排除できない。この真理にあがらい、発生した不都合な真実を「なかったことにする」所作は民主主義の第一原理に反する。逆に不都合な真実を認め反省する者を赦さないのは第二原理に反する。

 

長岡市官製談合事件の真犯人である磯田市長がその真実を認めず隠す行為は従って民主主義の第一原理に反する。また原発問題で間違った公約をしてしまったことを認めず、ねじまげて正当化しようとする行為も民主主義の第一原理に反する。

官製談合事件で磯田市長が言うべきは「間違いを犯してしまいました。情報漏洩は良くないことであるとは思っていましたが正直それほど悪いことでもないと思っていました。心を入れ替え改めます。どうぞお許しください」であるし、原発問題での公約問題でいうべきは「確かにご指摘通り間違った公約をし、市民を困惑させてしまいました。辞任したうえ新たな公約のもと再立候補します」である。そして市長選をやり直すべきである。そして長岡の民が民主主義の第二の原理に則って「赦す」かどうかを問うべきである。問わないのは第二の原理に反する。今長岡の民の多くは第二の原理に則り「赦した」のではなく第一の原理に反しているだけである。

 

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その23)原発再稼働に関する5月27日新潟日報記事を見て

【L-25】に対する回答がまだ来ていないが、5月27日の新潟日報の重要な報道があったのでこれに関して市長への手紙【Lー27】を出した。(後掲)

 

柏崎刈羽原発再稼働に対する事前了解権を持たない長岡市他の周辺自治体は県に全てを委ねている。しかしその一方で「我々周辺自治体の意向をどのように取りまとめるのかのスケジュールを示してほしい」と相矛盾する要求をしている。すべてを委ねると言っておきながら、そのスケジュール(方法)を示せ、とは卑劣で陰湿であろう。花角知事のスケジュール(方法)を知って一体何をするというのか?再稼働反対派をなだめすかし、抑え込むパフォーマンスではないのかという疑念が湧く。磯田流「衆愚政治」の典型がここにも現れた。

 

手紙で提言したが長岡市など周辺自治体は再稼働に対する事前了解権を含む協定を東京電力と締結して自身の賛否意見を明確に持ち、それを示す以外に進む道はないと思うが読者諸君はどう思われるだろうか。協定締結は市長が腹にダイナマイトを巻き付けて決死の覚悟を示し交渉しない限り実現しないと思うがそれをやるべきだ。

立地自治体である柏崎市刈羽村は再稼働を容認する意向を明確にしている。長岡市も本音では再稼働容認(【L-25】でそれを追求中)であるが「市民の不安が解消されない限り再稼働には反対する姿勢を堅持する」という見せかけの公約を正当化するためにスケジュールを示してほしいなどといかにも再稼働に不安を抱くものの側に立っているようにみせるパーフォーマンスであることは明らかである。こんなパフォーマンスでは長岡市民の命と生活は守れない。

もしかしたら要望書提出は花角知事と磯田市長他が申し合わせた茶番劇かもしれない。

 

 

 

 

【L-27】

長岡市長 磯田 達伸 様

27日の新潟日報の記事によると26日に磯田市長他研究会の方々が県庁を訪問され、花角知事に要望書を提出されたとのこと。この記事を見ての所感と質問そして提言を申し上げます。

 

結論から申し上げますと、こんな軟弱な姿勢では長岡市民27万の命と生活の安全は守れないと思います。

 

【Ⅰ】再稼働事前了解権を持たない長岡市他周辺自治体は、事前了解権を持つ県に全てを委ね、お願い・要望ベースでしか動けないのは決定的な弱みです。

花角知事はこれまでの言動を総括すると原発推進派です。再稼働に関しても三つの検証で合格レベルになるまで続け、容認する構えであることは見え見えです。「周辺自治体の意向も取りまとめ十分斟酌して決定する」というのは方便であるのは明らかです。磯田市長らが要望書でいわれた「周辺自治体の意向をどのように取りまとめるつもりかを明らかにしてほしい」に対して「これから皆さんと相談して決めたい」というのは明らかに躱しです。

質問①  違いますか

 

【Ⅱ】花角知事との会談の後の記者会見で「周辺自治体の意向をどう取りまとめるのかのスケジュールが示されないので不安である」との磯田市長のコメントあったとのこと。花角知事が周辺自治体の意向の取りまとめをどのようにスケジュールしていますか?と問うこと自体じめじめしていて後出しジャンケンを狙っているようで、第一失礼な話です。「全てお任せします」と言っておきながら疑っているからです。また「不安である」などと難癖をつけるのはさらに失礼です。花角知事が周辺自治体の意向をどう取りまとめるのかの前に各周辺自治体は自分の自治体の意向をどう取りまとめるのかを住民に明らかにすることの方が重要です。

 質問②  どう思われますか

 

【Ⅲ】今回の要望書提出は、これまでの経緯と合わせすべて「やってる感」を演出するパーフォーマンスではありませんか。

 質問③ 違いますか

 

【Ⅳ】以上のような軟弱でじめじめしたパーフォーマンスをやめ「長岡の市民を命がけで守る」という信念を具現してください。第一に、長岡が再稼働事前了解権を含む協定を何が何でも締結すると意思決定すること。第二に、透明・公正な手段で長岡市民の再稼働に対する賛否を問うことを勇断してください。国策である原発推進とは逆の原発反対であり、従って再稼働には反対する市民が多数を占める捩れが生じることになるかもしれません。もしそうなれば、そこからが智慧の出しどころです。現実からの逃避は最悪です。

 質問④ 事前了解権を含む協定を東電と締結することを命がけで目指し、締結の暁には再稼働に関する賛否を透明公正な手段で問うことをやっていただけませんか。これこそ真に「命がけで市民の命と生活を守る」ということです。いかがですか。

 

               令和3年5月29日    小林 眞幸

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その22)民主化へ向けてのかすかな光明

原発問題に関する市長への手紙【L-25】に対する回答待ちの間、是非綴っておきたい出来事があった。

民主主義政治の最大の患難のひとつである「衆愚政治」という基礎疾患を患い、多種の合併症が発症しつつある長岡市政ではあるが、明るいニュースとして突然飛び込んできた5月18日の臨時議会での議長選挙がそれである。議会の非民主化の原因の一つともいえる長年にわたる指名推薦方式を排し、所信表明投票方式という民主的な方法に切り替えた。そしてそれが外圧によるのではなく、議会の内部自律・自発的な 自己要請によるものであることである。長岡議会にはまだ民主主義の魂がかすかであるかもしれないが、残っていたことが分かったことは大変意義深い。これをきっかけにして市政の民主化に向けての内発的動きが活発化することを切望する。

 市政に真の民主主義を取り戻すために始めた「市長への手紙」やこのブログでの公開をしなくても済むようになる日が来るのを願いつつ・・・・。

同様の内容の市長への手紙【L-26】を掲載しておく。

 

【L-26】

長岡市長 磯田 達伸 様

5月18日の臨時市議会について所感を申し上げます。

 長岡市がこれまで長年にわたり続けてきた指名推薦方式を所信表明投票方式に急遽切り替えての議長選出が実現したことには大変驚いたと同時に嬉しさを感じました。

 最近の議会の様子を見ていての率直な感想は一言で言うと「非民主主義」です。元来地方議会は首長を長とする役所と議員団は二元対立的に緊張状態であるべきなのに、対立どころか、なれ合い・もたれ合いの状態になっているように見えています。官製談合事件での

「裁判を超える市独自の真相解明をし、改革につなげるべし」と主張する一部議員の口を封ずる所作が象徴的な事例です。長岡の市政を真の民主主義に戻すのは並大抵ではないと思っています。

 そうした思いの中、この度議会が自律・自発的に議長選出を投票方式という民主的な方法に戻したことはかすかな光明として私の上の懸念を和らげる方向の出来事です。議会がまだ自浄力を持っている証しとなるものです。この調子で長岡の市政の民主化を進めていただきたいと思います。「議長への手紙」制度がありませんので「市長への手紙」で市長にお伝えしますので是非議長・議員団の皆様にもお伝えくださるようお願いします。

 以上の所感に対する市長のご感想と議長・議員団への伝達の件、回答いただきたくお願いします。

 

令和3年5月24日    小林 眞幸

長岡市政を糾し正そう・・・真の民主主義を求めて(その21)原発問題に対する長岡市の正体

衆愚政治」という基礎疾患のため様々な合併症が発症しているが、原発問題でも合併症が進行しつつあることを前頁(その20)で述べたが、さらに補足しておきたい。

磯田市長の公約すなわち「市民の不安が解消されない限り、柏崎刈羽原発の再稼働には反対の姿勢を貫く」はいかにも原発には消極的で慎重なスタンスであることを偽装する騙しであることが明確になった。本心は原発推進の国の方針に長岡は異論なし。再稼働の是非判断においても国と県に全面的に委ね従う」である。善良で純真な長岡市民を騙し欺き、愚弄する態度である。

国の審査や県の三つの検証はいずれもその先には原発再稼働を展望してのものであることは明白だから規準に合格するまで続けることが分かり切っている。つまり再稼働するための審査や検証である。このトリックに騙されてはならない。審査や検証に合格しても安全を保障するものではないことを知らなければならない。

安全神話が崩れた今、国は事故が起こることを覚悟せよと国民に暗に言って言い訳・アリバイを作っている。その証拠に国は避難計画を立て訓練をせよと言っている。福島原発どころではなくチェルノブイリ級の事故が起きたら日本では避難する場所はないことぐらい分かり切っているのに・・だ。そのことを今市民が正しく理解認識してかかることができるかを試されている。